Vol.24:新しい波―多様な自立の時代

教育の最終目標は何か?

 教育の最終目標は何か? 答えは自明で、自立を支援するものだ。自立にはいろいろな形があり多種多様だ。社会的な常識さえあれば、どこで何を生業としてもよい。

 ここまでは誰にも異論はないと思う。教育の目標を、デジタル能力や想像力や創造力やグローバルリーダーシップなどと言うから、複雑になり混乱を招いている。
 それらは最終目標ではない。自立した人間に備えてほしい一部の教養や特性にすぎない。任意の中間目標といってもよい。
 デジタル能力がない芸術家は価値がないのか? 想像力や創造力が足りない官僚や弁護士はどうか? グローバルリーダーシップ力がない地域のボランティアには意味がないか?

 個性教育は当たり前で、必要なのは、中学教育と高校教育において「個々」が自発的な学びをするように誘導し支援することだ。それはLeave No One Behind―誰一人取り残さない教育だ。個性を許さない教育は拷問に等しい。

 教育はプレゼンテーションに似ている(図1)。プレゼンテーションは、聴衆と一緒に歩く知の旅(Guide your audience on a revealing journey)である。

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図1

 
 プレゼンテーションを指導する時に大事なのは、出発点(Start)と到達点(Goal)を明確にすることだ。出発点は調査や研究の動機で到達点は結論。聴衆と理解を共有しながら自然に到達点まで誘うために、適切な資料(Objectives)を選び論理的につなぐ。どの資料を使い、どの順序で示すかは、聴衆の理解度で決まる。誰にも同じやり方をするのではない。プレゼンテーションの資料は、教育における中間目標に相当する。

 繰り返すが、教育の最終目標は自立であり、どんな形でもよく多様だ。

新しい波―高校教育で精神的に自立した人間へ
 自立には、精神的自立と経済的自立があり、いうまでもなく、精神的自立が優先される。
 では若者は、いつ精神的に自立するべきか? 現状の数字を見よう。高校の就学率はほぼ100%だ。大学進学率は50%を超えており、大学の受け入れ可能な能力は応募生のほぼ100%に相当する。希望する誰もが、どこかの大学で勉強できる教育環境が整っている。とすれば「高校を卒業するまでに」精神的に自立するのがよい。

 そのために必須なのは、繰り返すが、中学教育と高校教育において「個々」が自発的な学びをするように誘導し支援する誰一人取り残さない教育だ。
 そこから、社会人、専門学校、日本の大学、外国の大学、世界放浪、その他(?)の多様な選択が生まれる(図2)。リカレント教育の充実は正しい方向である。
 教育機会が充実したので、大学は精神的に自立した者が、次の目標である経済的自立をめざして選択する一つの道にすぎない。

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図2


 新しい波の例を一つ紹介しよう。保護者に内緒で、日本の大学の入学試験を拒否した私が知る若者のことである。彼は、アメリカの大学で経済学を勉強することにした(ボストンがよいそうだ)。入学試験の季節が過ぎた頃、保護者と話し合った結果である。
 彼がなぜ、日本の大学の受験を拒否したのか? 東京大学を頂点とする学歴ピラミッド構造に組み込まれ、その価値観を受け入れることを感覚的に拒否したのだ。
 彼は、私が紹介したボストン在のカリスマ教師による英語クラスを受けている。週に2回で各60分(実際には90分になることもたびたびだが)。

 そのクラスを観ていて気づいたことを紹介しよう。私が予想したよりも多くの時間を読む(reading)と書く(writing)に割いている。始めてから2か月ほどだが、聞く(listening)と話す(speaking)も含めて全般的に驚くほど上達が速い。
 特に何が優れているとはいえない平均的な若者だ。適切な資料を使ったreading とwriting の正しい指導の中で、考える力critical thinkingが培われているためと思う。彼が夢をかなえるのは数年後になるだろうが、今後は、このような若者が増えてくるような予感がする。
 
 ところで、ドイツやフランスの大学進学率は~42%と~41%だが、国として、とてもうまくやっている。

 東京大学を頂点とする融通性に欠けた学歴ピラミッド構造が得意とする「内輪」で「不透明」な決定と運用が、うまく機能しない時代になった。所詮、過去問を早く正確に答える力に優れた集団で、AIにかなわない人たちだ。そして、失われた暗黒の30年! こう考えると、今の学力は古い価値観といえる。

  では、世界はどの方向へ進んでいるか? グレタ・トゥーンベリらが教えるのは、「早い時期(高校生)の精神的自立」「多様性」「市民参加」の方向だ。上下意識、女性蔑視、縁故主義、利権主義、弱者に冷たい社会を脱して明るい未来を開くためには、日本社会もその方向へ行かねばならない。

私立大学への期待

 リカレント教育の充実が多様な個の自立を支援すると述べたが、そのような日が来るならば、大学教育と大学院教育の充実も必要だ。

 再び数字を見よう。日本の修士号取得者と博士号取得者は~0.6%と~0.1%だが、ドイツは~2.1%と~0.3%と、フランスは~2.0%と~0.2%だ(注:ドイツとフランスの学士取得者は~42%と~41%)と、日本よりも高学歴だ。多様な精神的自立者のための個性ある高等教育機関が日本に必要だ。期待はおのずから独自性豊かな私立大学だ。

 ところで、私立大学の学費は、安くないといけないか? 安かろう悪かろうの大学はもう要らない。私立大学の学費は高くてもよい。選ぶのは応募生である。
 ただし、奨学金は必要だ。返済の義務がない本当の奨学金だ。
 日本の私立大学は、毎年~2,800億円の公的補助金(私立大学等経常費補助金)をもらっている。一つの大学の年間予算の~10%に相当する。これは二重の意味で危険だ。第一に政府が干渉する口実になる。第二に~10%をもらうことが当たり前になる。麻薬のようなものだ。国の金をあてにしない経営をするべきだ。
 学費は高くてもよい大学を選ぶ応募生は必ずいる。私は、この補助金を奨学金にするべきだと思う。日本の大学生の数は毎年減っていて、まもなく300万人を切るので、単純計算で、一人当たり~10万円である。選抜があるので、実際に給付される奨学金はもっと高額になる。

 大学には寮も必要だ。国際学生専用の寮でなく、日本の学生も国際学生も共に暮らし、教え合う本当の国際寮だ。海外では、別の国出身の同室の学生から大きな影響を受けて、世界に目を開く学生が実際に多い。

 学費は高いが教育の質が優れた小さい大学、例えば、マサチューセッツ州のウイリアムズカレッジのような大学が日本にも必要だ。高校卒業後の多様な選択、充実したリカレント教育と大学と大学院。これらの課題を乗り越えた先に、失われた暗黒の30年の夜明けがあるに違いない。


グローバル教育企画社、ボストンブリッジ代表 蝦名 恵

まなびの小径

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