Vol.37:ロシアのウクライナ侵攻に思う!

 ロシアがウクライナに侵攻したことは、その残虐な攻撃とともに、その侵攻の理由において本当に納得できない。多くの人は「プーチン」個人を問題にしているが、私はそういうプーチンを好む、ロシア人の意識や歴史的経験のほうが問題だと思う。「民族自決の原理」に反するからである。
 実際、ウクライナが旧ソ連から独立して、社会主義国から自由民主主義国に国家体制を変えたとき、旧ソ連時代に連邦を構成した共和国が体制を変えることに抵抗したのが、旧ソ連の中核をなしたロシア共和国だったのだと思う。実際、ロシア共和国が自由民主主義体制を採ったとき、経済はもとより政治も混乱を深め、国民の多数が2度と同じような混乱を経験したくないと思ったものと思われる。

 自由民主主義が根づくには、かなり時間がかかるものと思われる。
 かつて、早稲田大学大学院の院生で、中国の大学に就職した人が、「今の中国には自由民主主義は適当でない。当面、今のような共産党支配による社会主義体制でよいと思う」と語っていた。私は、「それではいつまでも、国民主権による自由民主主義は中国には根づかない」と反論したが、やはり「国民の意識がそこまでに至っていないから」という理由で反対された。

 中国は「西欧の人権思想が絶対ではない。東洋ないし中国流の思想もあるのだ」と、西欧の人権思想を絶対視せず相対化して、国家主導の「国家主権」による立場に立って国民を導く考えを保持している。
 中国の思想がどれほど普遍性のあるものなのかは、明確に言語化されたものが認められないが、少なくとも「共産党」主導による国民のための政治は間違うことがないとの前提で、国民に思想・信条の自由は認めず、言論・表現の自由も認めない、という独裁的で全体主義的な政治体制を誇示している。
 プラトンの哲人による独裁政治を実行しているのだろうか。少なくとも中国共産党は常に正しい、とする根拠は何か。

 私から見れば、「国家主権」を標榜した場合、国民は国家のための手段・道具として扱われ、国民の人権を保障する=「国民主権」を否認するものであるから、民主主義的な性格は認められないので、「国家の絶対的な正しさ」を証明しなければならないと考えるが、誰もそれは証明できないであろう。
 なぜなら「国家主権」を唱える人も、国民と同じ「人間」だからである。「人間」が絶対的な正しさを保持するという保証はどこにもない。それでも、「人間」にしか頼れないと考えると、保証なしに絶えざる改善を通して、絶対的な正しさを追求していく、とする方向しかないともいえるが、それでは「安心・安全」は得られないように思う。ある個人の思い上がりや優れた才能に圧倒されて、感情的に流される危険性は免れない。

 もちろん、「民主主義」、特に「自由民主主義」が絶対に優れているとは思わない。衆愚政治や大衆民主主義に堕落して、窮地に陥った国は数多い。それでも相対的には「自由民主主義」はベターな国家体制として、よき成果をあげてきた。
 現在最も重要な問題は、科学技術の進歩の速さに比して、人間の精神、特に政治思想・経済思想などに関わる倫理観の進歩の速さがそれに追いつかないという点にある。
 科学技術の発展は、人間の倫理観の変化を待たずに、純粋に合理的な論理だけで進行する。特に最近のように、その種の道具としてコンピューターが開発され、量子コンピューターのような超高速の、ビッグデータを処理するものが発明されてくると、とても精神的価値観、道徳的倫理観のほうがそれに追いつくことは難しい。

 私は以前から「科学技術の世界は、頭脳・論理だけなので新しい電子機器によって、時代が下がるにつれて、後進国のほうが先進国に従来よりも早く追いつくが、政治体制や倫理思想の世界は、頭脳・論理のみでなく感情や意志なども通さねばならず、時に身体的な血を流さねばならないこともあるので、先進国に追いつくにはどうしても時間がかかる」と述べてきた。たぶん、その面では後進国は先進国に追いつくことはないであろう。
 「教育」の難しさもそういう部分にある。

(名古屋大学名誉教授 安彦忠彦)

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