Vol.39 :『古事記』を読む(その2)
太安万侶は、奈良時代の文官(民舞卿従四位下勲五等)で、古事記の編纂者です。昭和54年に奈良市此瀬町の茶畑で墓(命日:養老7年7月6日、723年8月11日)が発見されました。
朝日新聞(平成24年4月16日)によると、日本最古の史書『古事記』の編纂から1300年を迎えたこの年、太安万侶の遺骨を、奈良市の寺から奈良県田原本町にある神社に分骨され帰郷したと報じられています。
昭和34年(1959年)に「日本誕生」(東宝)という映画が公開されましたが、イザナギとイザナミの両神の国生みからヤマトタケルノミコトに至るまでの物語です。大ファンだった原節子さんがアマテラスオオミカミを、三船敏郎さんがヤマトタケルノミコトを演じていたのでよく覚えています。
さて、『古事記』の編纂された当時、日本は大化の改新に着手していました。天智天皇の時代で、天智2年8月(663年10月)に、朝鮮半島の白村江の戦いに大敗してしまいました。
唐からの侵攻を危惧し、独立国としての日本を唐に認めさせようとして、政策の一つとして『古事記』の編纂を進めることになったのだそうです。
そして、『古事記』は、天武天皇(在位673~686年、白鳳時代)が、稗田阿礼に暗誦させ、太安万侶が筆録し、和銅5年(712年)に完成しました。
少し横道にそれますが、『古事記』は、「ことふるふみ」と読むそうです。
また、『古事記』を筆録した太安万侶は、「太安麿呂」と異なる表記があります。
それから、あれだけの内容を稗田阿礼ひとりで記憶できたのだろうかと、疑問が呈され、稗田阿礼というのは個人名ではなく、暗誦する役割をもつ人たちの集団を指すのではないかという説があるそうです。
実は、『古事記』は、編纂された頃はともかく、その後はほとんど注目されませんでした。これを広く世に知らしめたのは、江戸時代の本居宣長で、35年の年月をかけて研究し著した労作『古事記』の注釈書『古事記伝』44巻によってです。残念ながら読んだことはありません。
ところで、『古事記』および関連する書籍を読んでみると、私には難しく、そのうえ、『古事記』に書いてあることを「頭から信じてよいものか?」という思いが頭をもたげ、どうしたものかと悩んでいます。
イザナギとイザナミの両神が、国生みをすることはさておくとして、初代の神武天皇の即位は、辛酉(かのととり)の歳(紀元前660年)です。日本史では、おおむね旧石器時代(~前14000年)、縄文時代(前14000~)、弥生時代(前4世紀~)、古墳時代(3世紀~)となっていますから、神武天皇は縄文時代に在位していたことになります。
その時代に果たして、天皇制が存在していたでしょうか。浅学菲才の私にはあまりにも大きな?です。
『古事記』そのものが、史書を装った物語であるということでよいのでしょうか。
『古事記』の9年後に編纂されたのが『日本書紀』です。前者は神話集で、後者は歴史書だといわれることがありますが、この位置づけでよろしいのでしょうか。
『マンガ古典文学 古事記(上)(下)』(小学館文庫)や『天上の虹』(講談社)の著者である里中満智子さんは、「神話や伝承には、その国の民族の価値観や感性が織り込まれているのです」と、あるインタビューに答えています。
史実かどうかという視点にこだわらない読み方もあるようです。
自由時間に恵まれていますので、引き続き、関連する書籍を読み漁って、探ってみるつもりです。
(教育調査研究所 小島 宏)