Vol.67:「学校教育3.0」から見た「探究的な学習」から「プロジェクト学習」へ
1 『学校教育3.0』という視点
筆者は、2018 年4月に刊行した『学校教育3.0』(三恵社)において、約150年前に誕生した近代公教育制度を国民国家型教育システム(=「学校教育1.0」)と捉え、代わって登場した資質・能力重視教育システム(=「学校教育2.0」)が、現行の学習指導要領でも重視されているが、これからの時代に求められるのは、「持続可能社会型教育システム」、すなわち「学校教育3.0」である、との考えを提示した。
地球温暖化や生物多様性の減少、格差の拡大など、生態的、社会的な持続可能性の危機が人類の将来を脅かしつつある今日、その解決に向けた具体的な取組に主眼をおいた学校教育が求められている、という主張である。
まず、「学校教育1.0」から「学校教育2.0」への移行に伴う学校教育の、特に教育方法の変容について確認しておく。
文部科学省はほぼ10年ごとの学習指導要領の改訂のたびに、教育課程の新たな方向性を示し、徐々に重点を移動させてきた。
図1は、最新の学習指導要領の改訂作業過程で提示された「何を学か」「どのように学ぶか」「何ができるようになるか」の三者が鼎立関係にあることを示した図をベースにしている。
ただし、矢印を付加したように、過去30数年の世界の教育改革の潮流を受け止めて、「教育内容」重視から「教育方法」重視が加わり、そして「何ができるか」という「到達目標」重視も加わる形で推移してきた、というのが筆者の理解である。
図1 学校教育の重点の推移
教育先進諸国では、おおむね1990年以降、それまでの知識注入型教育から学習者中心の学びへ、「何を学ぶか」という学習内容よりも「どのように学ぶか」という教育方法に改革の重心を移していった。
「学習者中心の学び」のキーワードは、「主体性」「アクティブ・ラーニング」「対話」「協働」などである。学習者の主体性を重視するという姿勢は、日本でも1998年度改訂の学習指導要領で導入された「総合的な学習の時間」に示されている。そこには「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し、…」という象徴的なフレーズが書かれている。
21世紀が始まろうとする頃から、世界の学校教育は、OECD(経済協力開発機構)に牽引される傾向が生じた。OECDは、世界的な学力比較調査PISAを2000年から3年ごとに実施してきたが、他方で、1999年から2003年に実施したDeSeCo(コンピテンシーの定義と選択)プロジェクトの成果として、キー・コンピテンシーという概念を提示した。
この「何を学んだか」から「何ができるか」への転換は、その後主要国の教育課程にも影響を及ぼし、「コンピテンシー・ベースの改革」ともいわれている。2017年度改訂の現行の学習指導要領のキーワードとされる「資質・能力」は、まさに「何ができるか」というコンピテンシーに対応する概念といってよい。
それでは日本の教育課程が「資質・能力」重視に転換したのはいつ頃からなのだろうか。前述の1998年度改訂の学習指導要領の「総合的な学習の時間」についての記述の続きには、「(主体的に判断し、)よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」と書かれており、「資質・能力」重視の始まりは、現行の学習指導要領からでないことは間違いなく、筆者は1970年代半ばまでさかのぼると見ている。
2 「学校教育3.0」時代の教育
「学校教育1.0」、「学校教育2.0」、「学校教育3.0」の主要な違いを一覧できるようにしたものが、図2である。
以下、「学校教育2.0」から「学校教育3.0」に向けて、学校教育はどのように変わるべきかを、「教育方法」に焦点を当てて補足する。
図2 学校教育の過去・現在・未来 『学校教育3.0』を基に筆者が作成
(1)「学校教育3.0」と統合的・総合的思考
図2では「教科分断/教科統合・総合」を「題材やテーマ」といった「学習内容」ではなく、「教育方法」という枠組みで考えている。精緻さを求めるために全体を細かく分けて学ぶのも一つの学習方法、相互関連性を見失うことのないように極力全体を一体のものとして統合的・総合的に学ぶのも一つの学習方法、と考えたからである。
そして、持続可能な社会の構築に向けた学びは、統合的・総合的に全体を見渡すことが必要と考えている。
持続可能な社会の構築には、複雑に関与している多様な領域が互いに協力し合うことが不可欠となってきている。さまざまな領域を統合・総合して捉えようとする動きは各方面で見られる。SDGsは、社会、環境、経済という三つの領域を統合した17のゴールからなっており、それら17のゴールも相互に関連していることが強調されている。
理系の各分野を統合したSTEM教育にさらにArtsを加えたSTEAM教育が重視されてきたのも、そのような動きの一環と見ることができよう。
(2)学校教育への多様な参画
図2の「教育方法」の2段目の欄は、学校教育の主導者である。誰が中心になって進めるのかによって、実際に学校内で展開される学習の様子が大きく変わるので、このことも「教育方法」という枠組みに入れている。
「学校教育1.0」の段階の主導者が教師で、「学校教育2.0」の段階の主導者が学習者であることは、今では大方の認識となっている。そのように思いたいが、現実の多くの学校では、依然として「教師主導>学習者主導」が根強く存在している。
「学校教育3.0」における主導者の多様化は、すでに始まっている。文科省自身も「地域とともにある学校」というキャッチコピーの下で、地域の人々や保護者の関わりの拡大を推奨している。その際に、地域の人々や保護者が単なる支援者、サポーターではなく、協働者という位置づけであることは、「地域学校協働活動」という名称にも現れている。
2018年6月に文科省が提示した「Society 5.0に向けた学校ver.3.0」というポンチ絵にも、「学校教育3.0」に相当する「持続可能な開発モデル」の姿として、子どもたちを「アクティブ・ラーナー」にするために、学校関係以外の多くの機関・組織が参画する姿が描かれている。ただ、文科省のポンチ絵に描かれている図では、関与を示す矢印が、多様な機関・組織から学習者に一方的に向かっている。
それに対し、筆者の「学校教育3.0」の構想では、多様な参画者を、「指導する主体」であると同時に、「子どもと一緒に学ぶ」主体でもあると捉えている。
「人生100年時代は生涯学習時代」といったイメージで、大人世代も学び続ける必要があるという認識が浸透しつつある。ICTを中心とする科学技術が進展し、社会の変化も激しい中で、青少年時代に学校で学んだ知識等が、いつまでも通用するわけではない、というのが理由とされている。
しかし、筆者が、大人世代の学校教育への参画を必須と考える理由はもう一つある。持続可能な社会の構築には、「世代間の不公正」という問題を解消しなければ実現が難しいからである。
原子力発電にしても、プラスチックにしても、20世紀後半以降に人々が利便を求めて開発したもので、それらの大量生産・大量消費が本格化したのは、主にこの30年間のことである。原子力発電に伴う使用済燃料や汚染物質にしても、廃棄されたプラスチックなどの有害廃棄物にしても、地球温暖化と同様に、これらは全て将来世代にとっては大きな負担となる。
このような「世代間の不公正」の解消は、利便や利益を得ている大人の世代が経済を動かし、政治を牛耳って現在の社会を動かしているので、極めて困難なことである。「持続可能な社会の創り手になる」ために、個々の直面する課題を解決する技術や制度・仕組みを創造する力量を培うことはもちろん重要である。
しかし、現役世代による将来世代への配慮が限定的な中で、決定的に重要なことは、学習者自身が持続不可能な事態を招来している構造的な問題を解きほぐし、社会を変革する力をつけていくことであろう。
それとともに、利便や利益を追求してきた大人たちの世代自身が、持続可能性の危機を招いたことを自覚するように働きかける必要もある。若者世代が大人世代に働きかけ、持続可能な社会の構築のための行動に大人世代を巻き込む必要がある。
(3) 「探究的な学習」と「プロジェクト 学習」
図2の最下段では、「学校教育2.0」に対応する学習方法を「探究的な学習」、「学校教育3.0」に対応する学習方法を「プロジェクト型学習」としている。「プロジェクト型学習」も「探究的な学習」の一つであるが、より限定的な学習方法である。
筆者も編著者に加わっている『持続可能性の教育』(2015年、教育出版)の中で、「持続可能性の教育」に適した学習方法として「プロジェクト型学習」を取り上げており、「探究的な学習」との違いについて、以下のように記述した。
《学習者が中心となってプロジェクトに取り組む学習法に「プロジェクト型学習」がある。英語圏では Project–based learningと言われている。
「プロジェクト型学習」の捉え方には幅があるが、プロジェクトを立ち上げて取り組むものであるため、「探究的な学習」と比較した場合、①現実に存在する重要な課題と取り組む傾向が強い、②より学際的な取組みとなり、情報機器を用いた情報の収集や分析なども取り入れられがちである、③グループによる協同的な活動が重視される、④3週間以上の長期にわたる活動が多い、というような特徴がある。(p.69)》
このうちの③について補足すると、「探究的な学習」もグループで進めることは多い。渋谷区のある中学校の場合、「マイ探究」という名称を使いながらも、一つのテーマについて10名ほどがグループとなって活動を進めている。ただし、最終段階の発表では「一人10分程度の発表」とされている。学習者一人一人を対象に評価する現在の学校教育の下では、「探究的な学習」においても、個人の優劣を判定して評価することは避けがたいのかもしれない。
『持続可能性の教育』の刊行から10年が経過し、現行の学習指導要領において「資質・能力の向上」が強調されるようになった現在、付け加えるとすると、⑤探究的な学習には、個人の資質・能力の向上という意図が多分に見られるのに対して、「プロジェクト型学習」には社会変革的な志向が強い傾向がある、という点であろう。
3 「 資質・能力」に伴う「競争」と、競争を回避する手立て
学校教育を遂行するうえで、個人の資質・能力の向上を目指すのは当然のことと受け止められるであろう。2021年の中教審答申「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して」でも、「多様な人々と協働しながら…持続可能な社会の創り手となることができるよう、その資質・能力を育成することが求められている」と記されているように、「持続可能な社会の創り手」としての役割を果たすうえでも、個人の高い「資質・能力」は重要である。
しかし、現代の社会構造の中にあっては、個人の「資質・能力」の高さは高収入や物質的な豊かさに結びつくため、より高い「資質・能力」の獲得を目指す競争の激化を招いてしまう。受験競争や学習塾の氾濫が物語っているように、上級学校への進学や卒業後の就職を巡って求められる「資質・能力」は、競争とは切り離せない。 その一方で、そのような高い「資質・能力」を得られない子どもたちが受ける精神的な抑圧など、付随して生じるマイナス面も計り知れないものがある。
「探究的な学習」にしても、「プロジェクト型学習」にしても、結果よりもプロセスが重要であるということはたびたび指摘されている。しかも、探究が一段落して「まとめ・表現」がなされた後も、それが起点となって次の探究へと向かっていく循環が重要で、その循環過程でさまざまな側面での「資質・能力」がおのずから高まっていく。
その好循環の結果として、例えば、全国学力・学習状況調査(学力テスト)の分析では、「総合的な学習の時間」で探究のプロセスを意識した学習活動に取り組んでいるほどテストの正答率が高い傾向になっている。このことは、喜ばしいことである。
しかし、「資質・能力」の向上を目的として探究的な学習を取り入れる場合、必然的に競争の世界に巻き込まれてしまいかねない。本来の探究的な学習の意義が見失われ、持続可能な社会の構築に向けたより大きな課題解決が等閑視される危険性が潜んでいる。
互いに競い合う「競争」を全面的に否定するわけではない。競争は活力や意欲を生み出す重要な契機となる。
しかし、今日の社会的格差の拡大などとも深く関わっている「競争」に対しては慎重であるべきである。そして「競争」を引き起こしがちな「資質・能力」の重視にも警戒を怠るべきではない。
「資質・能力」につきまといがちな「競争」の負の側面を回避する道はあるのであろうか。
長期的な協働を前提とする「探究的な学習」であれば、「競争」の負の側面をある程度回避できるように感じている。個人の「資質・能力」の向上を追究するのではなく、グループのメンバーと、ある時は分担して調べ、ある時は熟議を重ねて、課題の解決に向けた長期の活動に取り組むと、「競争」の意識は希薄になるはずである。
そして、長期的な協働を根底に据えた「探究的な学習」は、限りなく「プロジェクト型学習」に接近したものとなる。
しかし、現実の日本の学校の教育課程を考えると、「協働」の部分はクリアできても、「長期的」という部分をクリアするのは困難である。「総合的な学習(探究)の時間」も、現行の学習指導要領では年間70時間にすぎない。さまざまな行事等が「総合的な学習(探究)の時間」の枠で実施されることも多い。
つまり、現行の学習指導要領の下では、本格的な「プロジェクト型学習」にチャレンジすることはほとんど不可能といわざるをえない。しかし、2024年12月に示された「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について(諮問)」では、「柔軟な教育課程編成の促進」という表現で、教育課程について各学校の裁量の幅を増やす方向での検討を求めている。
今後、各学校が、長期的で協働的な探究活動の実現に向けて動き出すことを期待したい。
(学習院大学名誉教授 諏訪哲郎)