Vol.10:「中教審の答申」を読んで

「中教審の答申」を読んで

 昨年末、知り合いのOMさんから「来年の1月に中教審の答申が出るらしいよ。新型コロナウイルスでステイホーム中でしょ。読んでみたら!」と連絡をもらった。そこで、自分としては珍しく、令和3年1月26日に出た中教審の答申をじっくり読んだ。
 その際、MN氏の勧めもあって、「中間まとめ(令和2年10月7日)」と「答申素案(令和2年12月4日)」とを比較し、審議の過程でどのようなことが削除され、修正され、追加されたのかを分析した。その過程で、学んだことや感じたことの幾つかを紹介させていただく。

 <答申の主眼>
 今次の「答申」の主眼は、現行の学習指導要領の目標と指導内容の実現と、従来の日本型学校教育を「令和の日本型学校教育」としていっそうの充実・発展を目指すことである。

 <日本型学校教育のよさ>
 日本の学校は、学習機会と基礎学力の保障に加え、全人的な発達・成長の保障や居場所・セーフティネットとしての福祉的な役割を果たしている。このことは、諸外国からも高く評価されており、コロナ禍の下で再認識された。

 <子供の多様性への対応>
 答申の副題「全ての子供たちの可能性を引き出す」の「子供」の捉え方が素晴らしい。子供を、幼児・児童・生徒、個々の子供の個性・能力・特徴の違い、特別支援学校や小・中学校の特別支援学級に在籍する児童生徒、小・中・高等学校に通常に在籍し通級で指導を受けている児童生徒、学校に在籍する外国人児童生徒及び日本国籍ではあるが日本語指導を必要とする児童生徒、いじめや心の病や家庭の事情などで登校できないでいる児童生徒等の全てを視野に置いている。

 <「個に応じた指導」の概念>
 「指導の個別化」と「学習の個別化」を教師視点から整理した概念が「個に応じた指導」であり、これまで以上に、子供の成長やつまずき、悩みの理解に努め、個々の興味・関心・意欲等を踏まえてきめ細かく指導・支援するとともに、子供が自らの学習状況を把握し、主体的に学習を調整できるように促していくことが求められる。
また、「個に応じた指導」を学習者(子供)視点から整理した概念が「個別最適な学び」であり、子供がICTを活用して、自ら見通しを立てたり、学習情況を把握し新たな学習方法を見つけたり、自ら学び直しや発展的な学習ができるようにしていくというのである。その際、「個別最適な学び」が自分だけの「孤立した学び」に陥らないように、「協働的な学び」を行い多様な他者と学び合うことの重要性と必要性を指摘している。
この「個に応じた指導」と「個別最適な学び」「協働的な学び」を実現する「授業改善・充実」を、校内研究の中心的な課題・研究テーマとしたいものである。


 ************************************
 中教審の答申を読んで、実に多くのことを再確認し、またたくさんの新しいことを学び取ることができた。このことを表明したうえで、イチャモン・感想を綴る。

 <その1>
 「子供」と「児童生徒」を区別して使用している。一般的には、幼稚園は幼児、小学校は児童、中・高校は生徒、大学は学生、幼小中を合わせて子供、小中を合わせて児童生徒と称することとしたのだろうか。だとしたら、用語の使い方について、素人向けに脚注で解説していただきたい。

 <その2>
 「地方自治体」を「地方公共団体」に修正した箇所がある。「地方自治体」という名称は、法律上存在しない(憲法第9条および地方自治法第1条など)。さすがである。

 <その3>
 答申の30ページに「陥穽」という用語が登場する。陥穽は「かんせい」と読み、「落とし穴」「罠」「落とし穴に落ちる」ことを意味する。「陥」はカン、ゲン、おちいる、おとしいれる、「穽」はセイ、おとしあな、である。素人も読む答申にしては格調が高すぎる。恥ずかしながら4回目の成人式を迎える身で初めて出会った。

 <その4>
 答申の79ページに、令和6年度からのデジタル教科書の使用を強力に進める一方で、紙ベースの教科書の使用についての記述があり、正直ほっとした。ガラパゴス人類の我が身にあっては、紙ベースの教科書や書物はなくしてほしくない。紙ベースの本は「じっくり」「筋道立てて考える」論理的思考を育て、デジタル本は「パッと判断する」「直感的思考力」を育てるとの指摘がある。讀賣新聞R3年1月31日社説、カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員教授メアリアン・ウルフ神経科学者、「スマホ脳」著者スウェーデン精神科医アンデシュ・ハンセン、東京藝術大学大学院映像研究科教授佐藤雅彦、元文部科学相河村健夫、国立情報科学研究所教授新井紀子、明治大学教授齋藤孝など諸先生の主張に納得している次第である。

 <その5>
 答申の89ページに「・・・教壇に立ち、」という表現がある。私が平成6年4月に東村山市立K小学校に赴任した時、どこの教室にも「教壇」はなかった。平成10年に異動した台東区立N小学校にも「教壇」はなかった。「教壇」は今や古語に近く、多くの教師(平成元年に教師になった人も若くて50代である)、特に若い教師や学生は、意味が理解できないようである。知人の中学生の子に「きょうだんって何か知っている?」と聞いたら、「う~~ん。宗教団体の教団のこと!」と言われてしまった。

一般財団法人教育調査研究所研究部長 小島 宏

コピーライト

  • Copyright 2009 Japan Educational Research Institute. All rights reserved. Designed by TypePad